プリンキピア続編陽電子−中性子仮説(同重体理論)>序章 問題点の導入

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元素の由来と発見の歴史(二)

元素発見の第一ブーム−「化学の革命」

ようやく十七世紀前半になって、物質の本質がもっと具体的なものだろうと気付く人がいた。ボイル(Robert Boyle, 英, 1627-1691)である。「物質を小さく小分けていくと,最後にはいろいろな形や種類の粒になるだろう」と彼がさらに明確な考えを提案した。

しかし、ボイルの考え方は当時の人達にとってあまりにも理解し難いものであった。また、すでに一般化となった「四元素論」プラスシュタール(G. E. Stahl, 独, 1660−1734)らが提唱した「フロジストン説」が人達に根深く先入感を持たさした。だから、ボイルがこの素晴しい理論が提出されてから、一世紀ものの歳月が立っても、当時の学者達の間にはあまり反響がおよばなかった。

十八世紀後半になって、ラボアジェ(Antoine Laurent Lavoisier, 法, 1743-1794)がボイルの考えに影響され、地道の実験を繰り返し、水素と酸素の性質を明らかにした。そして,ラボアジェはこの成功を元にして,「四元素論」や「フロジストン説」を根底からひっくり返し,ボイルの考えを全面的にサボートし、その構想の正しさをアピールした。そして、ラボアジェは更に「元素」という概念を再定義した。

「元素とは今日まで知られている方法で、それ以上分解できないもの」とし、33の元素が載った表を発表した。その中に今のとは違う「熱素」や「光」も含まれていたが、殆どのものは今の元素と同じのである。

また、ラボアジェがさらに「質量不変の法則」を提唱し、化学の教科書にそれを載せた。ここまで来て,人類はようやく「化学反応の前と後は、元素同士の結び付き方が違うだけで、反応に加わる元素全体の種類と数は変わらない」ということを認識し始めた。これは後ほど「化学の革命」と高い評価を得ている。

「化学の革命」をきっかけに新しい元素が次々と発見され,物質の根源はこのようにして,形のない元素から形のある原子へと変わった。19世紀初頭に、「原子論」や「原子観」など原子についての世界観も形成されるようになった。

ドルトン(John Dolton, 英, 1766-1844)が「原子論」を以下のように記している:

  • 物質を分解していくと最後にこれ以上分解できない粒子になり、これが原子である。
  • 同種類の原子、つまり元素の質量(原子量)、体積及び化学的性質は同じだが、元素ごとにこれらはすべて違う。
  • 種類が異なる元素が化学結合するときに、原子同士が決まった数だけ結合する。

これは「原子論」の最も原始的な考え方である。この考え方に基づいて、ようやく化学反応が説明でき、各国の有力な科学者に賛同され、確定されるようになった。そして、それまでになかった化学のブームを引き起こし、人々は元素の発掘に没頭して、新元素が次々と発見されるようになった。これは元素発見の第一ブームのきっかけである。元素そして化学反応に関する研究も盛んに行い、1869年までに元素の数は一気に64個まで増やされた。

しかし,元素発見の第一ブームは多少盲目性がある。科学者達は分解や電解など当時のあらゆる方法,手段を使って物質を分解し,そこに新元素があるかないかだけに集中した。やがて新元素の発見はしだいに難しくなった。

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この論文は2001年9月14日付けで文化庁にて第一公開年月日の登録を行いました。(登録番号は 第18418号の1)
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