プリンキピア続編 > 月面クレーター形成の真のメカニズム > 第一章 クレーターは隕石によって作られたものではない

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「隕石衝突説」を受け入れた背景
17世紀〜19世紀にかけ、天文学に関する知見は日々更新され、月にクレーターの存在も確認できるようになった。しかし、当時の望遠鏡の性能では、確認されたクレーターの数が極めて少なかった。また、砂や粘土にボールを投げるなり、ピストルで発砲なり、爆弾で砲撃なりする行為は、隕石が硬い月面と衝突する行為とは一緒に比較することに無理がある。

写真技術やメディアが発達しなかったため、科学者達がクレーターの情報をスケッチを通して公表する方法しかなかった。つまり、月のクレーターの本当の姿を目にする人の数はほんの一握りしかしなかった。

一方、十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、科学が多分野におき、電気の実用化、特に医学の進歩……、など科学発展のおかげで、人々の生活に大きな変化をもたらした。これらの変化は人々は科学の新しい知見、新しい思想、新しい理論に対して歓迎する気持ちを持ち始めた。なおかつ、当時において、専門家と一般人の距離が大分開いているため、専門家や、科学者に対する崇拝意識も強かった。よって、かつての一般人は今と違って、専門家の意見なら、分からなくても素直に受け入れる習性があった。
ガリレオ・ガリレイによって作成した月のスケッチ

このような背景の中で、「隕石衝突説」が人々に受け入れられた。これが原因で、当時の人たちの頭の中では、月が泥沼のような半固体状のものばかりと想定するようになった。これは後の月有人飛行の計画に多大な迷惑をかけた。アメリカの月有人飛行計画の最初の頃、人々は最も心配されたことは月が本当に着陸できる状態にあるのかと言うことである。もしかして、ギルバートの実験と同じように、着陸船が月の泥沼に入り込んで、新たに一つクレーターを作って終わってしまうかもしれない。

アポロ計画の中に1961〜1968年までなんと7年間もかけて月に本当に着陸できるかどうかについて神経を尖らして詳細に調べた。そのため、月への上陸の期間を大分遅らせた。そして、月の地面は地球の地面と同じように固いと言うことを確認できたから、ケネディ大統領が約束した60年代に月へ人を送り込むことができたのである。このことは当時の人々の心境を物語っている。

更に、隕石説が提出した当時には、月面にこれだけ数え切れないほどクレーターの存在も知ら内だけでなく、1ミリメートル以下のクレーターの存在も当然想像できない。これは実際に月に上陸してから確認できたことである。

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当論文は2000年11月15日付けで日本国文化庁にて第一公開年月日の登録を行いました。(登録番号 第17591号の1 )
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