2002/11月27日
ささやアートフォーラム pm 7:00〜

 <神輿って?>

 ルーツは中国の輿が原形であったと思われます。 どんな形をしていたのかと言うと、中に人の入れる乗り物で「シイチャオ」等と呼ばれていました。
 今のお神輿みたいに4本棒に2本井桁ではなく、台下に2本前後に通った担ぎ棒で、肩上に担ぎ上げる乗り物です。中国の北京を訪れた時、紫禁城の中に贅を尽くしたその「シイチャオ」輿を見た記憶があります。
 それは2本棒の真ん中にもう一本舵取りをする棒が在ったような気がします。 やがて文化や宗教の伝導と共に天皇の乗り物「鳳輦/ほうれん」として日本に伝わったものだと思います。その「鳳輦」には「葱花/そうか」が乗っています。葱花は神社の欄干等の隅にあるギボシの周りに、仏像の後背に在るような炎の様な形の物が付いています。 「鳳輦」は今も京都の葵祭りや東京日枝神社の山王祭りで見る事が出来ます。 静々と、お乗りになっていらっしゃる高貴なお方に不快な感を与えないように、気を使ってお運びになっています。
 「葱花」を御印に神様や天皇が乗る高貴な乗り物として在った訳です。お神輿では東京四谷の須賀神社のお神輿に金色の見事な葱花が乗せられています。  お神輿と言うと今では皆さんご存知の形を想像されるでしょうが、明治の初期までは「鳳輦」に真似た山車が中心で、 それも神事や天皇家にまつわる行事に登場するものでした。 実は明治維新までは江戸も山車が中心の祭を形成していたんです。
錦の御旗で無血開城に漕ぎ着けたまでは良いが、将軍お膝元の心意気高い江戸庶民の政府に対する人心の懐柔を迫られた新政府が、 将軍上覧の「天下祭」に手を焼き、取った手だてに人心高揚を狙う祭を奨励しました。 後で樽神輿の時にも触れますが、天皇の江戸城入城の折りに配付された酒樽に山車を併せて「天盃祭」を各町会毎に盛大に行わせたりする傍ら 将軍色、武家社会の一掃が真の狙いの新政府は、神田明神の祭神/平将門を新政府に背く逆賊として追放したりと、着々と維新を進めて行くのです。
 やがて都市整備が進み、路面電車の出現により背の高い山車は巡行を制限され次第に山車小屋に留まる様になり、その役目は終わりを告げるのです。 関東型山車はやがて地方に売られ、今は小江戸/川越や秩父等の関東近県にその姿を留める様になりました。 変わりに出現したのが今のお神輿のです。
  庶民が触れあい、町会単位で祭を形成する事により、新社会を根付かせようとの新政府の狙いに併せ、神社も氏子制度が確立されると 爆発的に人気を泊しして行く訳です。
  実はお神輿には関西型と江戸(東京)型があります。三社祭の神輿は関西型にルーツがあると言われています。 それは日光東照宮のお神輿は徳川幕府が奉納しその様相は滋賀県の日吉大社のお神輿に遡ると言われています。 その東照宮のお神輿に真似て徳川家光が浅草神社に奉納したからと言われています。 では江戸型のお神輿はどうして出来上がって行ったのだろうといいますと、江戸文化に人に言えない程のプライドを持つ職人気質の色濃い江戸の巷では、 何処か気位の高い京文化に反発するように、お神輿の形にも上品とは違う粋や、繊細ではあっても、ともすれば荒っぽさに代表される様な 気っ風を組み入れて次第に江戸型、東京型を形作って行く訳です。
 この様に現在良く目にするお神輿と東京は実に関係深いモノがあります。 中国の「輿」が海を超え日本に伝わったと同じ様に、日本の中心となった東京から各地に江戸型のお神輿は広がっていったと思います。 また別に関西型のお神輿は京文化を継承しつつ、山車やお輿として広がり天皇ゆかりの祭事には欠かせないものとして存在しています。
 先にも言いましたが京文化の色濃い地域、滋賀の日吉大社の4基のお神輿は関西型神輿原形のみならずの日本のお神輿の発祥型として残る大変素晴らしいモノです。 岐阜の高山にも八角の巨大な関西型神輿が山車に並んで保存されています。京都以西のお祭りには山車に飾りを施したモノが多く見受けられます。 今注目を集めている岸和田のだんじりや九州博多の山笠もその辺りがルーツではと考えます。
 今のお神輿は「鳳凰」「大鳥」と呼ばれる鳥が「葱花」の変わりに乗っています。 この「鳳凰」もやはり中国より伝わる「四瑞」麒麟・亀・龍と共に尊ばれた想像の鳥です。

◆◇◆ 形は前は麒麟、後は鹿、頸は蛇、尾は魚、背は亀、頷(あご)は燕、嘴は鶏に似ており、五色絢爛、声は五音にあたり、梧桐(ごどう、あおぎり)に宿り、 竹実を食い、醴泉(れいせん、あまいいずみ。味のよい泉)を飲むといい、聖徳(すぐれた知徳、天子の徳)の天子 (神の使者として派遣され、神意を人間に伝え、人間を守護するもの)の兆として現れると伝え、雄を鳳、雌を凰という。 ◆◇◆



<お神輿はどちらが正面ですか?>
 
と良く聞かれる事があります。大抵は駒札、つまり鳳凰の前に付いている町名や会の名前の木札の向いてる方だって答える人が多いんです。
確かにそれは間違いではありません。 では鳳凰も駒札も付いていない時の見分け方はと言うとおもむろにお神輿の鳥居の後、御霊のお入場される場所の扉、 唐戸を開いてご神体が入っている方が正面だと言う人がいます。
 厳密に言うと、鳥居は神の世界との結界ですので、普段は神官以外は入れ無いんです。 神社もそうかい?って言われますと一般が入れるのが境内から拝殿まで。 本殿にはホイホイと入るには勇気が入ります。ましてやご神体の扉を開ける等と言う事は出来ません。そこで見分ける方法をお知らせします。
 これは高級なお神輿に通じる見分け方でして、上田市にある大抵のお神輿では駒札を見て下さい。 もしさっき言ったように鳳凰も駒札も無い時は、神主に成ったつもりで扉です。
 
実はお神輿は南正面なんです。 お神輿の一番下を形造っている部分、コレを台輪と呼びます。お神輿の大きさもココの寸法で呼ばれます。ココにヒントがあるんです。 天の四方を治める神、東に青龍・西に白虎・北に玄武(亀)・南に朱雀が高級なお神輿には彫刻されています。 ホントに高級なお神輿になると方角に関する彫刻で一杯です。十二支の南・馬をあしらった図柄もあります。
 もうお気付きになったかと思いますが、町名や会の名前の入った、一目で正面が解る目印に駒札(馬)が使われているのも何かのいわれかなと思います。                                                                      


  <さて樽神輿はと言うと>  
 これは明治元年に始まったものと、今は無き国学院名誉教授の樋口清之教授がお神輿に関する本の後書きで述べられています。
樋口教授と言いますと日本文化や風俗研究科、歴史考古学者として著明な方で、登呂遺跡の調査や、松本清張の小説の歴史的背景の 検証にブレーンとして多大な尽力をされた方でした。 自身も「梅干しと日本刀」というベストセラーをお書きになられ「日の丸弁当」の素晴らしさに代表される日本の食文化に触れ、 日本人の知恵と独創の歴史/日本人の活力と企画力の秘密/いま見直される日本的経営の原点/と題して上中下3巻にわたり発表をされました。    それは英訳され外国から日本文化・日本人を見つめる時のリーダーズブックとして貴重な資料となっています。 樋口教授は樽神輿の起こりは、明治天皇が京都より江戸城に入場された折、江戸各町内に振舞う為に「灘の樽酒」を下賜された。 当時灘の酒はとても口にする事の出来ない代物で、それを喜んだ江戸中が「天杯祭り」という四日間に渡る祭を催したそうです。
 その時にその樽をお神輿に見立て臨時に担いだ、それが樽神輿の起原だと言う話です。 明治維新のやり取りも有ったでしょう。私もそれが樽神輿の起原と信じています。
 

上田市は宮神輿と樽神輿が半々位に見受けられます。 代表的な所は勿論横町の神輿と言ったら何か身贔屓かと思われますが、これが案外良い神輿なんです。大・中・小と3基有るんですが姿形がそっくり同じモノ。 町会のオヤジさん達に言わせると 「嘗て昭和9年に900円の大枚叩いて浅草から購入した、運搬に100円も出した当時家一件楽々建ったシロモンだ」と言う訳です。
 唐風破漆屋根に朱赤の枡組・紫綱掛の台輪二尺五寸の年代モノです。ですから私が所属している所の「横町若伊者會」でも実に大切に扱っています。 上田の祇園祭にこの3基が太神宮社伊勢宮から宮出し・宮入をする訳です。大神輿が帰って来るのが大体午後10時前後。宮入に大凡10分程掛けまして、 中鳥居を潜って手締め3本と成る訳です。そこから担ぎ手皆さんが納会に移る訳ですが、そのホンの僅かの間に解体しお蔵にお納めします。 「大神輿は蔵の外では一夜を明かさない」と言う訳です。何となく重きが有って聞こえが良いでしょう。 でもその実体は、明けた次の日担ぎ手がいないんです。
鍛冶町さんの宮神輿も良いですね。延屋根、白木緋色綱掛、蕨手にいつも町会名の入った弓張り提灯を掲げています。 横町と鍛冶町の大門町交差点での連合渡御は祇園祭の名物に成りつつあります。 これはお互いの町会の意志の疎通、担ぎ手の皆さんの暗黙のルールが無ければ成り立ちません。
  先頭で神輿全体を見る宮頭・その宮頭の指示を適格に担ぎ手に伝える木頭、そして先棒左右の抑え、脇棒左右の抑え、 そして前後左右横に通した2本の棒通称トンボの4箇所、そして後ろの親棒、脇棒の4箇所の合計12箇所に各々の責任者が付く訳です。 両町会のお互いが顔見知りであっても無くても、神輿の巡行に当っての規則を理解していれば未然に争いは防げるのですが、 どうも祭には「喧嘩が付き物」等という馬鹿みたいな言い伝えがありまして、せっかく盛り上がったお祭りも流血騒ぎじゃあ洒落にも成りません。 酒が入っての出来事と逃げを言う人もいますが、酒もお神酒の一口は許しましょう。
ですが正体の解らない程召し上がるのはどうかと思います。 事実相当酔った状態で横町の神輿に肩を入れてみて下さい。3分と持ちません。
 私達若伊者會は専らポカリスエットかスポーツドリンクです。その変わり納会は半端じゃありません。一人ビール4本当ては確実です。
 その他に私の知っている神輿で良い神輿だなと思うモノに、中常田の宮神輿と海野町の宮神輿があります。 中常田も海野町も台輪一尺八寸程の大きさですが、両神輿とも浅草の老舗宮本卯之助商店の名器です。 海野町さんの神輿はそろそろ修理しなければいけないと思うのですが。 大きく見せる為の後付けの台輪を外し本来の姿に戻した方が、ずっと趣のある立派な神輿になると思います。
  後は小さいながら風情のある丸堀の神輿、昨年入魂された馬場町の3尺の大神輿、そして関西型の材木町の神輿も良いですね。 大阪の天神祭や滋賀県の祭には材木町型の神輿が多く見受けられます。 本来神様や殿上人がお乗りになったモノ「輿」が今有る神輿の起原です。
 上田はその起原と発展系の各々が混在する面白い地域と言えるでしょう。ちなみに県下でもこれだけの神輿が存在する所は有りません。



<伴天・ハッピ>
 伴天・ハッピ。これは今やお祭りには付き物になった装束です。 ではずっと昔からそうなのかと言うと、昔のお祭りの写真なんかを見ると案外伴天やハッピ姿と言うのは少ないんですね。
東京は鳥越神社のお祭りは未だに浴衣着流しでお神輿を担ぎますし、先にもお神輿の時に話しましたがお神輿自体を高貴な方の乗り物と捕らえていた辺りは 神主さんの様な装束、白丁と言うんですがその白い狩衣の様な衣裳に烏帽子を被りお神輿を担いでいた写真もあります。 烏帽子を被るその名残りは府中の大国魂神社のお神輿にも見られます。
 ではいつ頃から伴天・ハッピが使われる様に成ったのでしょう?。
まずハッピですがこれは面白い説がありまして、仏教で仏を祀る時に着たものと言われています。 ですから今でもお寺さんの檀家さんの集まりでは名入れのハッピを使われる所があります。「どうだい!お寺でハッピでも」は実は先祖帰りの事柄なんです。
 さて伴天はと言うとこれは大店の名入れ伴天、職業による所の作業伴天、そして代表的な誰もが頷くでしょう 火消し伴天(これも作業伴天ですが)が基になっている事は事実でしょう。 大店の名入れ伴天は背中の印/大紋といいますが、遠めでもハッキリ解る様に屋号や目印を染め抜き、 衿に店や個人の名前を入れる事により、世間に対して自分の正体を明らかにする。いわば証明書の変わりと言っても良いでしょう。
 スタイルは仕事の効率を考え、膝に纏わり付かない程度の着丈とし、新年の事始めに使用人にお仕着せとして渡されました。 出入りの職人にも渡され、店の手伝いには必ずそれを着て行く事とされていました。 作業伴天は正しく職業を表すモノ。 今の仕事優先や安全重視の作業衣とは一味違った職に対するプライドを表す心意気も含まれたモノであった様です。 腰の部分に大きく職業をもじった腰柄を入れたり、個人商店的職業の職人には宣伝効果をねらったモノもあった様です。
 さて火消し伴天です。正に今の祭装束のルーツはこれだと言っても良い伴天です。 火災現場で目印となり、その図柄一つで何処の誰、役職は何まで見極められる様に染め抜かれた日本の染め文化の象徴ともいえるでしょう。 これは三代将軍家光により組織された「官設による大名火消し」の装束にまで遡ります。 江戸の町の消防業務を任された大名達が自身の組織力と、実力を顕示する為に火事兜を被り、革羽織りを身に付け、 西陣織りの馬乗り袴と羅紗の胸当てを付けた実に豪華絢爛でいて、当時の火災に対する万全の装備を備えた装束でした。 時代は移り江戸城を中心にする消防業務も、膨れ上がった人口の江戸の市中の守りも重要な課題となり、 そして八代将軍吉宗がかの大岡越前守に命じて組織させた「町火消し」への誕生と続く訳です。
  江戸町人の心意気がここで表れる訳です。体一つで火に立ち向かい何の安全も保証される事の無い身支度で命を架ける。 先にも言いましたが図柄一つで個人を特定できる紋様をあしらい、江戸文字と総称される独特の文字を目印にして、 消火では無い破壊消防に従事する様になりました。
火消しの伴天に使われている文字。これは実は加護字と言います。危険な作業に神のご加護があります様にと デザインされたと聞きます。寄席文字や観亭流とは違った命を賭けた文字型なんです。
その命を賭けての男の仕事に、江戸の町民は惚れ込んだんですね。 「芝で産まれて神田で育ち、今じゃ火消しの纏持ち」等と自嘲ぎみに唄った節もありますが、そこには粋と鯔背と痩せ我慢の江戸町人の心が読み取れます。
 そして明治/大正/昭和へと時代は移ります。 大名火消しは今の消防署体制の常備消防へと変わり、町火消しは今の自主防衛消防/消防団へと姿を変えて行く訳です。 そんな中江戸文化は絶える事無く受け継がれて行く訳です。現在も存在する(社)江戸消防記念会がそれです。 江戸から続いた「町火消し」の伝統と歴史を今現在まで伝え、尚後世に伝えようとしています。
「町火消し」結成当時の「いろは48組に本所・深川16組」が現存し現代町名に変わった今も当時の区割りを重んじ、祭事や催しを取り仕切ります。 ご存知の方も多いとおもいます。
 ところで皆さんが目にする火消しの伴天と言いますと黒地に腰白筋、肩赤筋の伴天が多いと思いますが、 あれは警視庁消防部によりデザインされた「役伴天」なんです。つまり偉いさんの支度なんです。 本来の火消しはカゴメや釘抜き・瓦つなぎ・源氏車・松川菱等の日向や影の総柄が使われました。これが実に見事なんです。 小幅36cmの木綿に染め抜かれた、うん!と唸る様なデザインです。
祭事を取り仕切る役目、勿論お祭り・お神輿にもこの伴天は登場した事でしょう。 股引に腹掛け、膝上の長伴天に腰高の平くけ帯をキリッと締めたそのスタイルはやがて粋筋を標榜する方達の流行を 十分刺激し、我先にとお祭りファッションに取り入れられて来たんだと思います。
祭同好会の皆さんや、個人的にお神輿にハマってしまった人達がそれは素晴らしい伴天を身につけ、各地の祭に参加する。 それはホンの僅か数日で終わってしまう祭の、そのホンの一瞬に見せる日本人のお洒落なんだと感じます。
  頑に装束を守る祭や神輿もあります。白半引きに白足袋で無ければならない所。同じ伴天で無ければ参加出来ない所。 様々な規制が必要とされる現代でもよくよく見ると、皆さん各々お洒落をしているんです。 手拭いや帯とかに凝っているんです。そして小粋に、それでいてさり気なく主張しています。
注意してみると結構いますよ。 今担ぎ手が少なくてお神輿が上がらないって所も多いんです。どこも町会の人間だけじゃ無理で、助っ人をお願いするんですね。そこで考える訳です。 どうすりゃ人が増えるんだろうと。
 今の若い子は「辛い/苦しい/汗臭い」は丸っきりダメなんです。でも「カッコ良い/目立つ/人と違う」はOKなんです。 そこでカッコ良い支度を揃えた所で、そして目立つ担ぎ型をする所で、如何にも由緒ありそうなお神輿の所に人が集まって来るんです。 そして最後は女性がいる所。特に女性の参加が拍車を掛けるんです。髪を上げ、キリリと手拭いを掛け男勝りに声を出しお神輿を担ぐ。 すると女性も私も私もとなるんです。
 見ててカッコいいんでしょうね。そうすると男も増える。
まあ横町もそうですね。 でも周りで集ってるだけじゃダメなんです担がなきゃ。横町の女性は担ぎ型も上手です。今じゃ男が周りで集るだけ。 汗の一つもかかないで納会でお酒を呑んでます。どう仕様もないですね。でも枯れ木も山の賑わい、人の多いお神輿は活気があって良いですね。 祭ファッションに身を包み雰囲気を味わうのも祭を楽しむ一つの方法かも知れませんから。

     

<手拭い・掛け声> 
  さてさっきの話の中にありました手拭いについてです。手拭いも伴天と同じ日本のデザインの際たるモノだと思います。
伴天と同じ小幅36cmの薄木綿に描かれた粋や洒落のお祭には欠かせないアイテムです。 手拭いは「手拭いを被る」「手拭いを掛ける」「手拭いを縛る」等様々な言われ方をされます。 どれが正しいんでしょう。
どれも正しいんだと思うんですが、この手拭いが一度お神輿で使われる鉢巻きに変わるとどうでしょう?。 実は鉢巻きは白丁を纏った時の烏帽子の変わりなんです。 ですからきっと本来は「被る」になるんでしょうが、江戸言葉で濁る言葉は粋に響かないんだそうで。で「掛ける」が主流になっているんだそうです。 私も20年程前深川の材木屋の知り合いに聞いて覚えました。でも喧嘩被りってあるんですけどね。
女性は大変です。上げた髪にやっとこ掛けた鉢巻きなのに、お神輿の出発前の神事では取らなきゃいけない。 ピンであちこち止めてある。中には針金なんかを入れて熨斗袋の水引きみたいな人もいる。 カブト虫やクワガタじゃ無いんですからそんなに角を立てなくたってと教えるんですが未だにいるんで困ります。 たたみ方や掛け方もうちの店で教えてるんですが毎年聞きに来るつわものもいます。針金は大分減りましたが担ぐ時後ろの人に危険ですから止めましょう。
  掛け声はもう本当に様々です。ソイヤもいればセイヤもいる。ワッショイもいればドッコイにソレ。 ヨイヨイ、チョイチョイ。関西なんかじゃサイテバチョーサなんて所まであります。
お神輿は大体が2拍子の早い遅いなんです。ワッショイ何かは4拍子です。サイテバチョーサは何拍子何でしょうかね。 お神輿はどちらかと言うとゆっくりと上下するとカッコが良いんです。ソイヤは案外早くなるきらいがありますので 合の手にソレを入れると調子が良いです。
 余談ですがサンバのリズムも案外お神輿には合います。



<祭って?祭の役割って?>
 さてお神輿や伴天の話はコレくらいにして お祭りが人や地域にどんな役割を果して来たのか?また行くのか?について少しお話をしましょう。
話がお神輿に偏り過ぎましたが、本来お祭りは一年中何処にでも存在する所の人間の風習ではないか?と思うんですね。 あえて風習と言ったのは宗教だとかややこしいシガラミに捕われない為ですが。
 新年1日に始まり大晦日31日に一年を終える。その時々に人間が感じる季節や自然の移り変わり、心の安らぎにお祭りは存在していると感じます。   春の芽吹きの季節の新緑祭、三月五月の節供、花火や浴衣の夏祭り、秋の収穫祭冬の雪まつり等々実に人間の生活に密着しています。 そこには受け継がれて行く伝統や、新しく出来上がった歴史の一歩がある筈です。 懐かしさや、楽しさや、逆にどこか物悲しさも感じる事が出来るモノ。それが祭だと思うんです。
 私が生活をするこの上田市、そして店を持つ横町。こんな小さな地域でさえもそう感じるんですね。
志し何ぞは指の先にすら無い、ただ呑みたいだけの、女房子供に受けの良い集まり横町若伊者會ですらそう感じるんですね。
年代も職業もはバラバラ。ただ横町にいる若いヤツラの集まり。私なんかもう若い者じゃないんですが結構しがみついてるんです。 それが一度集まると、お神輿の話は勿論ですが伊勢宮さんの話や御近所のお寺さんの話や、仕事の話を真剣にするんですね。
元々は近所にいるのに話もした事も無かった連中です。それがお祭りでお神輿を担ぐ様になって次第に絆を深める様になったんです。
お祭りが造ってくれたヒューマンネットワークです。「俺達が頑張れば幾らか横町も賑やかにならねえかなぁ」 「オヤジさん達も大分疲れて来てるようだし、一丁やるか」そんな会話が溢れています。
 幸い真面目な?活動が認められて自治会でも当てにされる様になりましたし昔は呼んでも貰えなかった行事の納会にもお声が掛かる様になりました。
オヤジが自治会の偉いさんでいて、若伊者會の息子が同じ席で酒を呑んでる姿。そして言いたい事を言い合って酔っぱらう。良いモンです。 そしてお祭り当日は普段は横町を離れ、市外で生活をする、元々は横町の人々が必ず顔を見せてくれる。
子供の頃は苛めっ子の本当に憎たらしいヤツだったのに、「今年も良いかい?」ってやって来るんですね。
  担ぎ終わってクタクタで「楽しかったなぁ」「来年も来るわ」「約束だぜ」そんな一瞬が何とも言えない場面なんです。 隣近所が心を一つにして、そして燃えて燃え尽きて祭は過ぎて行きます。


<希薄になった地域に果す祭の役割> 
  私がひょんな事から知り合った「祭を興した人達」の話をしましょう。
更埴市のあんずの里で有名な森地区の方達のお話です。 平成10年の事だそうです。当時森地区の交通安全協会に所属していた30~40代の皆さんの永年に渡る死亡事故ゼロ運動が表賞を受けたそうです。 地区を上げてその表賞を喜んでいた矢先、不幸にも死亡事故が発生してしまったんだそうです。 先人の努力と自分達のやって来た運動が瓦解する様なショックを受けたそうです。
 そこで皆でもう一度交通安全運動を啓蒙しようと話し合いを持ちました。 「どんな機会も逃さずに人々に訴えよう」そう話が有った時誰かが「今年の夏のドンシャン祭りでアピールを考えよう」との意見を言ったそうです。
 急遽ハッピを作り、50名以上人を巻き込んでの参加で頑張ったんですね。 そして夏が過ぎ、その余韻が冷めぬうち、せっかく集まった人達とこのまま離れてしまうより、森にある大宮神社の秋祭りまで引っ張ろうと言う意見が出たそうです。 メンバーには大工さんもいて、それならお神輿も作ろうとなりました。手作りで仕上げた樽神輿です。
 それで3年間ドンシャン祭に春秋の大宮神社の祭に 参加を続けました。 次第に地域の皆さんに浸透し、春はアンズの観光客で賑わう森の大宮神社祭もそれまで寂しかった筈の秋祭りにも人出が有る様になった訳です。 その間皆の間では何とか宮神輿を作りたいとの意見も出て、手作りの宮神輿を持つ県外の神輿会にまで足を運び見学をしたそうです。
 アクティブに活動をする団体はおのずと地域も認める様になるんですね。育成会・青年会にもその活動は普及し、やがて大きなうねりに繋がるんです。
「一度本物の神輿を作っている所を見学に行くか」現在森神輿会会長の中條さんが声を掛け、メンバー数人でとある神輿問屋を訪ねた時 「こんな補助金制度もあるよ」とそこの問屋の方が教えてくれたそうです。「宝くじ助成備品制度」です。努力を重ねる所には神様が微笑むんですね。
 大工さんの中條さんが「仕事ぶん投げて神輿を作らなきゃ」と悩んでた時です。こりゃ良い事を聞いたです。早速皆に連絡をとって作戦を錬るんですね。 そこから森神輿会の活動は尚活発になるんです。 まずこの時代インターネットのHPを立ち上げます。勿論森神輿会の情報だけで無く、更埴地域の情報をふんだんにアップし、緊急医の情報、 アンズの見ごろ情報と厚みを増して行く訳です。
その傍ら、地区の区長さんや役員さんを取り込み、今は雨の宮地区のみに残る獅子舞の、その昔森地区にある禅透院というお寺から三頭出た獅子舞の思いで話を 交えながら、年寄りのノスタルジーをくすぐったりした訳です。
 ある日アンズの里の観光駐車場の係りの大変さにネを上げた更埴市の実情を耳にし率先してその役をかって出て、会員がそれに当りました。 安協が出発点の会ですから、そこら変はお手のものだったそうです。そしていよいよ目的達成の為の最後の行動に打ってでました。
日頃の活動と、地域に対する貢献と、地区役員の後押しを得て「宝くじ助成備品制度250万」に申請をした訳です。 目出たく申請が通り、本年10月/彫刻鮮やかな朱色延屋根2尺の宮神輿がアンズの里に降臨した訳です。
 10月6日の初渡御には森地区650件全ての家に案内を回し上田/長野/松本より神輿好きの担ぎ手が集まって、盛大に大宮神社秋祭を執り行いました。 その日の為に会員が手弁当で行った神社の参道の修復、境内の清掃。気が付くと地区の皆さんも積極的に参加して手伝ってくれたそうです。
 さて、「お神輿を手に入れる事が出来た。良かった」そんな話をするつもりでは無いんです。
私がこの森神輿会の皆さんに教えられた事が有るから話すんです。 最初はホンの小さな集まりが、人が集う事により大きな輪になり、やがてそこには幾つものアイディアが出る。 そして一人では出来ない事が、仲間と助け合う事により実現に向けて動きだす。時には壁にぶつかり、見えない出口に正直離れていってしまう人もいる。 でもそれに負けず、自分達が望む事のみに走らず、地域や人を巻き込んだ事実を教えて頂いたから話すんです。
副会長の坂田さん。女性なんですが先日お話をさせて戴いた時私が 「お神輿が上がったから面白かったと言うのも有るでしょうけど、ここまで地域や人とコミュニケーションを取りながら、 いつか必ずって頑張ったてた時間がホントは楽しかったでしょう」と聞くと「そうでした」と即答されました。  そして 「本来ゆったりとした筈の御近所付合いもその実、農村地域のある意味閉息感も感じてはいたんですが、 あの10月の祭を境に日頃の挨拶に始まり、事有る毎に声を掛け合う様になったんです」とも言われました。 そうそれなんです。
人と人との触れ合い、人と地域の融合。中々今のこの時代ありませんよ。
 最初は自分達の夢、でもそれがやがては地域やそこに住む、そこに縁のある人の夢になる。素晴らしい事です。
神輿馬鹿も結構、カッコのみでも結構。皆さんもそんな風に祭に参加してみませんか。
 そしてお祭りが終わった後、だ〜れも居なくなった通りの寂しさも味わいませんか。酒が旨いですよ。
           終了 pm 9:00 約60名